僕の人生では、思春期において非常に大きな出来事が相次いだ。おそらく、側から見たらそうでもない出来事なのだが、自分としては多感であった時期であるため、大きな出来事なのだと思う。
大きな出来事を経て客観性の重要さと意味について知ることとなり、今では定期的に側から見た自分を知るようにしている。
今日の話は、客観性が僕らの内面を育てるという話だ。
僕は高校生の頃、バスケ部に所属していた。大会の時期になり、僕が率いる弱小バスケ部の面々は、試合に臨んだ。結果は2回戦負け(だったと思う)。大会ではいい結果が残せなかったのだが、僕はSNSで少しだけ注目を浴びた。
当時、SNSでそれぞれの学校の注目選手を呟いているアカウントがあり、そこに僕の名前(学校と背番号)が載ったのである。だが、そこには意外なことが書かれていた。
〈〇〇学校の5番はおもしろい動きをする〉と。
おもしろい動き?僕は少々腑に落ちないまま、実際におもしろい動きをしているのかどうか、みんなに聞いてみた。すると意外にも、我が部員たちは納得しているようだった。
「猿みたいな動きをする」「人間じゃない動きをする」「うまいというかすごい」的なことを言われ、非常にショックを受けた記憶がある。
そう、僕は自分で自分のプレイを“うまい”と思っていたのだが、実際は“おもしろい”が正解だったのだ。当時はすごくショックだった。「おもしろい動きってうまくないってこと?」と、周りの目を節穴だと思うくらいに腹が立って仕方がなかった。
意外な事実に驚きつつも割とショックだった僕だったが、次の日には考えを改める。「そうか、自分で勝手に思っていることと、周囲から見たときに思われていることって、明らかに違うんだ」と知ったのだ。
それからというものの、自分を過大評価していそうな時は誰かに意見を求めたり、自分がどう見えているかを聞くようになった。
セルフイメージと客観的意見の差をどう考えるかで自分に磨きがかかる
かっこいい動きをしていたつもりが、周りからはおもしろい動きと認識されていたように、自分でも本当の自分を知らないことが往々にしてある。
いくら自分で深く深く考えたとしても、その主観からは絶対に抜け出せない。自分で客観視しても、それは主観の中での客観性だから。
セルフイメージとは、自分で抱いている自分へのイメージ。その主観と、周りから見た自分のイメージを照らし合わせることで、自分の本当の立ち位置や「こう見られたい」という願望が浮き彫りになってくる。
もしあなたが、「こんなふうに思われていたなんて、最悪。私はもっとこうゆう人になりたいのに」と思ったら、それはセルフイメージが先行して、行動は理想の自分になっていなかったという証拠。修正して、目指すべき自分になるためにはどうすれば良いのかを考え、取り入れていくといい。
たとえば僕だったら、バスケのプレイでできていると思っていたことが、動画を見てみたら全然ダメだったことがある。目指すべきプレイをきれいに行うために、必死で練習して動画でもきれいに写っている自分を手に入れた。
自己肯定も自己否定もせず事実を受け止める
これは僕が出版したKindle本『君たち全員、ミニマリストになって自分らしく生きたらいいじゃん』にも書いた内容だが、まずは自己肯定も自己否定もせずに、事実をありのまま受け止めてみるといい。
自分を理解し、価値観を明確にするには、客観的な意見がどうしても必要になってくる。相手を傷つけるだけの悪口には耳を傾ける必要はないが、多少耳が痛くても理想の自分とは真逆の事実も受け止めるべきだ。
こうして自分を真の意味で客観的に見ると、自ずと新たな理解や発見ができる。僕はこの客観的な事実で何度も自分の理想とは真逆の現実を叩きつけられたが、だからこそ前向きに、できるようになりたくて努力した側面もある。
ぜひ、あなたも他人の意見を取り入れて、自分の解像度をあげてほしい。自分への理解が深まれば、より自分の価値観で生きやすくなり、幸福度が増す。
p.s.
今、僕はあまり客観的な意見を聞かなくなったいる。おそらく在宅ワークで家に引きこもっているのが大きな理由だろう。しかし、自分の内面を知り、より自分に磨きをかけるためには、客観的な意見が必要だ。
よかったら僕のことを知ってくれている人は、僕がどんな人間だと感じるか、ぜひ教えていただきたい。
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